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音楽のことなど、つれづれなるままに


by raccoon560

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HAND MADE

金曜日の深夜に教育テレビで 吉田秀和さんの追悼番組が放送された。
何となく気になって 寝る前に冒頭部分をちらっとみようとしたら
ついつい午前2時 最後まで観てしまった。

色々と考えさせられたが とりわけ印象的だったのが
原稿を執筆するシーン、手書きで たくさんのメモが書き込まれた原稿用紙に
楽譜の例を はさみで切り貼りしてゆく。
その譜例は、フォト・コピーではなく 吉田先生が自らスコアを五線譜に書き写したものだ。
取材にあたったディレクターが 「楽しそうに見えますね・・・」と声をかけると
一瞬 間があって
「あのね およそ芸術というものの 本質はハンドメイドだと思うんだ・・・」と
吉田先生は 語り始めた。
そして 詩人で評論家のポール・ヴァレリーが、ドガのアトリエを訪ねたエピソードを例に出す。
「ドガが 木の葉を一枚づつ 実に丹念に時間をかけて画いていた、そしてそれを楽しんでいた」

その話を聴いて 私はすぐに 指揮者のカラヤンや小澤征爾さんのリハーサルを連想した。
まさに彫琢するとでもいうような職人の手作業と思わせる、それはリハーサルだった。
そして完成した音楽には、そのハンド・メイドな手触りが確かに感じられるのだった。

さらに想いは飛翔して オーディオのことを考えた。
およそ自分たちが扱うオーディオ機器は 量産の工業製品だ。
B&Wのスピーカーは、その最たるものだろう。
しかし 例えば それを10年間こだわって 色々と工夫しながら鳴らし込んでゆく・・・
そうすると 量産品の工業製品であるスピーカーが
いつしか ワン・アンド・オンリーの逸品、
鳴らし手であるオーナーのハンド・メイドとなるのではないか。
私は そう考えたい。
HAND MADE_a0221320_10493871.jpg
 
# by raccoon560 | 2012-06-03 10:49 | オーディオ

新しい録音を聴こうよ!

新しい録音を聴こうよ!_a0221320_1193137.jpg
写真のジャケット・デザインが印象的だった
ブーレーズ指揮のバルトーク作曲「中国の不思議な役人」のCBSによる旧録音は
1970年代当時 凄まじいサウンドの最新録音だった。
とにかく自分は その盤で初めて「中国の不思議な役人」という曲を知ったのだ。
その衝撃は、大きな目玉が印象的なジャケットの絵柄と一緒についぞ忘れられないものだ。
ブーレーズでは、そのちょっと前に クリーブランド管弦楽団との
「春の祭典」も優秀録音だった。
一方当時は それと対抗するように メータ指揮ロス・フィルやショルティ指揮シカゴ響のデッカ録音があったり
DGでは ロストロポーヴィチ・カラヤンのドヴォルザークのチェロ協奏曲や
ポリーニのショパン練習曲集といった優秀録音が続出していた。
いずれも忘れられない音源であるが、しかし・・・という話になる。

最近 いにしえのオーディオ・ラボの菅野録音で
「SIDE by SIDE」がシングル・レイヤーSACD盤で再発され
「凄く良い音だよ!」とささやかれたので 久しぶりに聴いてみた。
聴いてげんなりした。
菅野録音をそしるつもりはなく 録音された時制を考えれば
実に素晴らしいクオリティの録音だということに異論はない。
だが しかしだ。
しかし そのクオリティは 30年前にすでに明らかに聴きとれた。
「ピアノが、ドランムが、ベースが、こんな風に録れてるなんて
何と素晴らしい録音なんだろう!」と
30年前に思った以上のものが 新たには感じられなかった。
逆に 演奏がひどく色あせて感じられた。
乱暴な言い方をすれば、恰好つけて弾いているけれど
しょせんジャズの真似事に過ぎない、今はそんな風に聴こえる。
こうした音源や 古いビル・エヴァンスのヴィレッジ・ヴァンガードでの録音などを
2012年の現在 何度も繰り返し聴いていたら
精神が弛緩してしまうんじゃないかと危惧される。
昔 自分の祖母が カセット・テープで東海林太郎や藤山一郎を
毎日繰り返し聴いていた情景を思い出す。

オーディオ・ファンの諸兄
新しい録音を聴こうよ!
サロネン指揮ロサンゼルス・フィルの「中国の不思議な役人」には
1970年のブーレーズ指揮NYフィルのCBS録音の時点では
捉えることがのできなかった「音のさま」がある。
それを伝えるために様々な新しいテクノロジーが開発されてきた。
新しい音源を再生することは、チャレンジングなオーディオだ。
癒しとは正反対のベクトル、全くもってエキサイティングだ。
新しい優れた音盤の良さを 存分に味わうことで
過去の優れた音源の良さも より深くわかるようになるはずだ。 
# by raccoon560 | 2012-06-02 11:10 | オーディオ

知の巨人

知の巨人_a0221320_21112341.jpg
先週98歳でお亡くなりになった吉田秀和さんは、
丸山真男さん、小林秀雄さん、柴田南雄さん、加藤周一さんらと並んで
20世紀の日本を代表する知の巨人だったと思う。

言いかえれば 彼らが世に出た頃は「知」をもってして
スターになれた時代だったのだろう。
知識階級という言葉は、嫌いだが
現在の「お笑い」や「スポーツ」からスターになる時代も どうかと思う。

吉田先生が書いた文章で 一番最初に私の心を捉えたのは
モーツアルトの39番変ホ長調の交響曲の第1楽章のアレグロ主部の始まりと
ヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」のワルツの始まりを比較しながら
音楽における芸術的な深みとはどういうことなのかを
語る文章だった。
中学生の自分にとってもなるほどぉ・・・!と腑に落ちる
説得力のある文章だった。
それまでの自分が目にした音楽評論というのは
作曲家の人柄・暮らしや作曲した時のエピソードといった人文地理的な情報か
もしくはこの曲は、ソナタ形式で出来ていて第一主題がこれこれ、第2主題はあれこれ・・・といった表面的な楽曲分析的な情報ばっかりだったので
それらにくらべ吉田先生の文章は、もっと奥深く本質的な内容を
言葉を噛み砕いて伝えてくれようとしているように思った。

音楽そのものを言葉で伝えることは出来ない。
それはたぶん真実だろう。
しかし音楽それぞれの特徴や固有の価値、また音楽に接した時の感動を
言葉で伝えることは出来る。
それどころか 次の世代に伝えるのはむしろ義務ではないのか。
オーディオにしても オーディオ装置の奏でる音質そのものを
言葉で伝えることは 至難である。
でも 伝えることを決してあきらめてはいけない。
吉田先生の遺影に接するたびに そう叱咤されているような気がしてならない
・・・合掌。
# by raccoon560 | 2012-05-29 21:11 | 音楽

武満 徹とドビュッシー

武満 徹とドビュッシー_a0221320_11474324.jpg
先週のN響の定期演奏会で
武満 徹作曲の「フロム・ミー・フロウズ・ホワット・ユー・コール・タイム」という
覚え辛い名前の曲が演奏された。
去年 指揮者の佐渡 裕がベルリン・フィルへのデビュー公演で
前半の曲目として取り上げ、BDにもなっているので
そちらの演奏で この曲に触れた人も多いかもしれない。
1991年のカーネギー・ホール創設100周年を記念して委嘱され、
1990年に作曲されたそうだ。
NEXUSという5人のパーカッションのグループをフューチャーして
大編成のオーケストラと協奏する40分あまりの大作である。

自分が興味を惹かれたのは その曲のまさに冒頭だ。
無伴奏のフルート・ソロで静かに演奏が始まるのだが
だれが聴いても ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を連想するのではないだろうか!
武満さんは、同じ時期に
「そして それが風であることを知った」という
フルート・ヴィオラ・ハープのための室内楽を作曲していて
これは、編成を見ただけでもドビュッシーを連想させるが
さらに 曲の中でドビュッシーのソナタのフレーズが
そのまま引用されるところがあって ドキっとする。
武満 徹さんは、1960~70年代の欧米で
ノヴェンバー・ステップスみたいな邦楽器を取り入れたところは、ユニークだが、
全体としては、悪く言えば ドビュッシーの亜流みたいな評価を受けたことがある。
彼自身ドビュッシーに傾倒し、大きな影響を受けたのは確かだろうが
「ドビュッシーに似ている・・・」
と言われることは 彼にとって大きなコンプレックスだったに違いない。
しかし 1990年前後に書かれた「そして それが風・・・」や
「フロム・ミー・フロウズ・・・」は
そうしたコンプレックスからの脱却を宣言しているように思われてならない。
60歳の武満さんの開き直りというか 60歳にしてふっきれたのか・・・。
ドビュッシーへの愛と敬意を込めた挨拶のようにすら聴こえる・・・
特に「フロム・ミー・フロウズ・・・」の場合は
「ドビュッシーさん、新しい音楽の世界を開いてくれて有難う、
あなたの足跡をたどりながら出発して、僕は今ここにいます!」
そんな風に聴いてしまった。
「牧神の午後への前奏曲」が1893年、カーネギー・ホールの100年が
1991年と
その間にほぼ100年の歳月が「フロウズ」流れていることも
当然 武満さんの念頭にあっただろうと思う。

そう考えると この武満 徹「フロム・ミー・フロウズ・ホワット・ユー・コール・タイム」は
「ウィリアム・テル」や「ワルキューレ」が引用されるショスタコーヴィチの
交響曲第15番にも通じるところがありそうだ。
フランスの音楽だったら
それこそドビュッシーの「ラモー讃」や「ハイドンを讃えて」
ラヴェルの「クープランの墓」などと
精神的には同じ水脈から湧き出た音楽なのかもしれない。
 
# by raccoon560 | 2012-05-26 11:47 | 音楽

「俺のオーディオ」@レコード芸術

音楽の友社が出版している月刊レコード芸術誌のオーディオ・コーナーが
先月号から大幅に刷新された。
かつては 小林利之さんと山中敬三さんが 新しい録音とオーディオ機器について
対談するページが 主となっていて
山中さんが逝去した後は、菅野沖彦さんが引き継ぎ、
ここ一年ぐらいは 菅野さんが勇退したことから、山之内さんと小林利之さんの
対談となっていた。
私が毎月、レコード芸術誌を購入して 真っ先に開くのがそのページだった。
あまたリリースされるクラシックのCDから菅野さん、小林さんが
一体何を取り上げるのか?が楽しみだったのだ。

そして刷新された先月号、オーディオ・コーナーの冒頭が
いきなり「俺のオーディオ 寺島靖国」だった。
ついに毎月レコード芸術を購入するという習慣に終止符を打つ時が来たかと思った。
そして おそるおそる開いた今月号(20日発売の6月号)、
「俺のオーディオ 村井裕弥」だった。
ホッとした。寺島さんの場違いな連載が始まったのではなく
毎月 様々な人が登場するコーナーだということだった。
「俺のオーディオ」@レコード芸術_a0221320_13434259.jpg

さて今月号の「俺のオーディオ 村井裕弥」だが
自分と同じく 主にクラシック音楽を聴くという共通点もあり
とても興味深く拝読した。
特に面白いと思ったのは、
この記事を読むかぎりでは、村井さんがクラシック音楽のディスクでも
ライブ録音を好んで聴かれるようであり、
そうしたソフトを用いてオーディオ装置に 
ある種「タイムマシーン」のような効果を発揮させることを追及しているようだ。
自分の場合は、ライブ録音も聴くけれど
主軸を置いているのは スタジオ録音モノだ。
ライブ録音の様々な制約を超えたスタジオ・コンディションでの録音・制作
そうして出来たソフトを 十全に再生することで
生演奏に臨むよりも さらに音楽の核心に迫りたい・・・というのが
自分が執心しているポイントなのである。
そんな違いをあらためて自覚した。

ところで 更に考えを進めて
オーディオ装置に タイムマシン的というか時空を超える・・・みたいなエフェクトを求めると
どこか オーディオ機器の物理特性の進歩と齟齬を生じる可能性があるのではないだろうか。
例えば昨日書いたびりー・ホリディの1958年のライブ録音は
その年代が信じられないほどの優秀録音で生々しいサウンドだが
現代の優秀なオーディオ装置で再生すれば、
50年前の録音であるというのは、あきらかにわかる。
つまり 装置の物理特性の優秀さが 音源の収録年代を聴き手に
まざまざと認識させてしまう・・・ということがある。
そうすると 時空を超えるトリガーとなるものは
いわゆるハイフィデリティというような概念や物理特性ではないんじゃないかと
思えてならない。

一方 自分のようにスタジオ録音のソフトを満喫しようという場合はどうだろう。
私は、第一義的に物理特性は大事だと思うが 
それにしても 現実にはありえないスーパー・サウンドを現出させるための
物理特性とかハイフィデリティって何だろう・・・と
考えさせられてしまう。
# by raccoon560 | 2012-05-22 13:43 | オーディオ